モンサンミッシェルに行き、言葉や写真では説明できない荘厳な雰囲気に大きな感動を味わいました。とっても貴重な体験ができたな、と思っています。
ただ、少しだけ心残りな所があります。
モンサンミッシェルの歴史についてもっとよく知っていれば、もっと充実したモンサンミッシェルの観光ができたのではないか、という気持ちもあるのです。
これからモンサンミッシェルに行く方々は歴史を知っていた方が、充実した旅行になるのではないでしょうか?
より感動を味わえるモンサンミッシェル旅行にしましょう!
モンサンミッシェルの歴史を簡潔にまとめてみました!
モンサンミッシェルの歴史(前編)
モンサンミッシェルの始まり
モンサンミッシェルはサンマロ湾の中のトンブ山という島に建てられている修道院です。
↑サンマロ湾の中にあるモンサンミッシェル
アヴランシュの司教であったオベール(以下、オベール司教)がモンサンミッシェルを建設しました。伝説によると、大天使ミカエルがオベール司教の夢に現れ、トンブ山で聖堂を建てるよう告げました。お告げに従って、オベール司教はモンサンミッシェルを建設したのです。
これが8世紀頃のことと伝えられています。
夢のお告げを中々実行しなかったオベール司教に大天使ミカエルが怒り、頭蓋骨に穴を開けてしまったという恐るべき逸話も残っています。アヴランシュのサン・ジェルべ教会に安置されているオベール司教の(ものと言われている)頭蓋骨にはミカエルの開けた穴を確認することができます。実際のところ、この穴は穿頭術(頭蓋骨に穴を開ける民間療法)によるものであると思われます。
↑オベール司教の頭蓋骨と穴
ヴァイキング(海賊)が統治する
9世紀、北ヨーロッパではヴァイキングによる襲撃が活発になっていました。当時、モンサンミッシェルのあるフランスもヴァイキングに襲撃されていました。ヴァイキングを率いていたロロはフランスのパリにまで攻め込みます。
フランスの国王シャルル3世はこれを脅威に感じ、ヴァイキングと和解するため、ロロに領地を与えます。このときに与えられたのが、モンサンミッシェルのあるノルマンディー地方でした。ロロはフランス国王からノルマンディー公の地位を与えられます。
こうして、ロロは初代ノルマンディー公になります。モンサンミッシェルのあるノルマンディー地方はロロの一族によって統治されることになります。
↑ノルマンディー公になったロロは洗礼を受け、カトリック教徒になります。
歴代のノルマンディー公は宗教の存在が領地の安定に繋がると考え、モンサンミッシェルを保護します。モンサンミッシェルはノルマンディー公の保護下で発展していきます。
イングランドのものになる
この辺から話が少し複雑になります。
1066年、ノルマンディー公であるウィリアム1世(ロロの子孫(曾孫の孫))がイングランドを征服し、イングランド王となります。この状況は複雑です。一国の公爵(フランス王国のノルマンディー公)が隣国の王様(イングランド王)になってしまったからです。
ノルマンディー公がイングランド王となったので、ノルマンディー地方はイングランドの領地になります。モンサンミッシェルは、昔イギリス(イングランド)のものだったとも言ってもいいのではないでしょうか。
↑1172年頃のイングランドの領土(黄色い部分)(by Cartedaos)
黄色い部分がイングランドの領土ですが、こうしてみると、フランスの大部分を占めていることがわかります。もちろん、ノルマンディー地方もこの領土に含まれています。
フランスが取り返す
今と比べると、当時のフランスはかなり小さな国家でした。しかし、1180年に即位したフランス国王のフィリップ2世がやり手の切れ者でして、イングランドの領土を奪い、ヨーロッパの強国へと成り上がっていくのです。
そして、ついに1204年にフランス国王のフィリップ2世はノルマンディーを奪い、モンサンミッシェルを陥落させます。これ以後、モンサンミッシェルはフランスの領地となります。
100年戦争(1337~1453年:フランスとイングランドで起こった戦争)においてモンサンミッシェルは断続的にイングランドから攻撃されますが、要塞化したモンサンミッシェルを落とすことは不可能でした。なお、100年戦争時にイングランド軍が使用していた大砲(退却時に放棄した)は現在もモンサンミッシェルの島の入り口に静置されています。
↑モンサンミッシェルの島の入り口付近に置いてあります(現在は1本だけ)。
100年戦争が終焉すると、戦争による被害が修復されることになります。もともとあったロマネスク様式の内陣(主祭壇を置く部屋)は戦争で破壊されたため、ゴシック様式の内陣が建設されました。この内陣は現在も残っており、西のテラスから続いて入る大きな祭壇のある部屋にあたります。
要塞として活用される
16世紀頃から、フランスは宗教戦争の煽りを受けることとなります。
モンサンミッシェル周辺の領地はプロテスタント支配下となり、カトリック側の防衛拠点として存在していたモンサンミッシェルはプロテスタント側から幾度も攻撃されます。しかし、非常に強固な要塞と化していたモンサンミッシェルは全く陥落することはありませんでした。
そして、宗教戦争の終わりとともに、モンサンミッシェルは要塞としての役割から、牢獄としての役割へと変化していくことになります。
牢獄として活用される
1789年、フランス革命が始まり、革命側によってモンサンミッシェルが支配されると、牢獄として使用されるようになります。
第二帝政時代の1863年、政令によって廃止されるまで、牢獄として延べ14000人が監獄に送り込まれました。
↑かつて修道士が写字をしていた騎士の間は囚人たちの強制労働の場として使用されました。わらの加工、靴の製造、機織りなどの作業をさせられていました。
↓モンサンミッシェルの歴史についてより詳しく知りたい人はこちらの本がオススメです。
前編はここまで。
後編は牢獄としての役割を終えたのち、どのようにして今のモンサンミッシェルになっていったか、というお話をしたいと思います。
↓後編はこちら
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