今年のGWの10連休のドイツ旅行の際に訪問しようと思っている観光地の一つです。
ヴュルツブルクに宿泊する予定なので、歴史あるといわれるマリエンベルク要塞に行ってこようと思います。
調べてみたら、マリエンブルク要塞がある丘にはなんと紀元前1000年頃からお城があったようです。
前史時代から始まるマリエンベルク要塞について調べてみました。
概要
どこにある?
ドイツ中南部の街、ヴュルツブルクの中央部を流れるマイン川の畔、小高い丘に位置しています。
最寄りのバス停「Alte Mainbrücke」からは距離にして1km程あって、徒歩20分かかります。
名前の由来
マリエンベルクの名前は「マリアの丘」に由来しています。「マリア」とは聖母マリアのことで、ここにキリスト教の教会があったことに由来しています。
なお、間違えやすいですが、「マリエンブルク要塞」ではありません。
「マリエンブルク(Marienburg)」ではなく「マリエンベルク(Marienberg)」です。ドイツ語でburgは「都市」、bergは「丘」という意味です。
歴史
前史から古代
マリエンベルク要塞がある丘は、紀元前1000年には既にケルト人が「避難用の城(フリーブルク)」を築城していました。この土地は古代ギリシアとの接触もあり、紀元前500年頃にはワイン交易網の北方における要所であったということもわかっています。
マリエンベルクは、川が近く交易品の運搬に適していたこと、そして、小高い丘となっていて、守りやすい地形であったことが、古くから城が建設された理由であると思われます。
2500年前からワインが運ばれていた交易の拠点だった、なんて考えるとワクワクしますね。
西暦100年頃からは、スエビ族、マルコマンニ族、アレマン族、ブルグンド族といった部族に代わる代わる支配されており、その後6世紀頃からはフランク族の支配下に入りました。このフランク族の国家であるメロヴィング朝支配下においては、チューリンゲン公爵が仮住まいを構えていました。
7世紀には、丘の上の要塞が「Uburzi(ウブルジ?」と呼ばれていたことがわかっています。(Uburziが転じてVirtebulch(ヴィルテブルフ)⇒Würzburg(ヴュルツブルク)と呼ばれるようになった)なお、マリエンベルクという名前は中世の中頃から使われ始めました。
7世紀後半から8世紀初頭にかけて、聖キリアンがこの地で布教活動を行った後、フランク王国の公爵ヘダン2世はこの丘に要塞(土塁と木骨造の家屋)とともに聖母マリアに捧げる礼拝堂を建設しました。
礼拝堂が建設されたのは、おそらく既に非キリスト教の神様が捧げられていた場所であるからだと考えられていて、この場所は後にキリスト教の教会となります。つまり、ここに礼拝堂が建設されたことが、後にこの丘がマリエンベルク(マリアの丘)と呼ばれる所以になります。
最初のキリスト教会の建設に使用された石材は、かつてのローマ国境の外側の北アルプスから運ばれた可能性が高いと考えられています。
聖キリアンのキリスト教の布教活動があったのにも関わらず、719年に聖ボニファティウスが訪れた際には、ヴュルツブルクでは土着宗教が広まり始めていました。そこで、聖ボニファティウスはキリスト布教活動の一環として、弟子の聖ブルクハルトを初代ヴュルツブルク司教に任命します。聖母マリア教会は司教座聖堂(司教のいる教会)となります。
その後数十年に渡り、ヴュルツブルクの街が拡大していくと、丘の上の聖母マリア教会は司教座聖堂としての役割を失い、その役割はヴュルツブルク大聖堂へと引き継がれます。
この時、聖キリアン、聖コルマン、聖トトナンの遺骸は丘の上の聖母マリア教会からヴュルツブルク大聖堂へと移され、改葬されました。
中世
13世紀に入ってヴュルツブルク司教が丘の上に居を構えると、マリエンベルクでは砦の建設が始まります。
ヴュルツブルク司教(クヴェーアフルトの)コンラートの時代、教会は宗教裁判所としての役割を持つようになります。コンラートとその後のヴュルツブルク司教(ロブデブルクの)ヘルマンは、マリエンベルクに初めて宮殿を建造したほか、現在も残る「ベルクフリート」(主塔)を築城します。
1242年時点では、ヴュルツブルク司教であるロブデブルクは丘の上のマリエンベルクを一時的な住居としてしか利用していませんでした。しかし、1253年に転機が起こります。司教は神聖ローマ帝国の皇帝と仲が悪かったため、皇帝派のヴュルツブルク住民と関係が悪化することとなります。自分の身を守るため、司教は丘の上へ転居し、マリエンベルク要塞を本格的に(永久に!)住居とするようになります。(これ以後、18世紀まで後のヴュルツブルク司教もマリエンベルク要塞を居城としており、丘を出て街で暮らすことはありませんでした。)
当時、ヴュルツブルク司教と住民の関係は険悪であったため、マリエンブルク要塞には武装した兵士が駐屯していました。司教はいつ住民から襲われてもおかしくない状況であったのでしょう。
1308年、司教(グンデルフィンゲンの)アンドレアスのもとでマリエンベルク要塞は増築されます。この増築は、その年に住民が起こした暴動の埋め合わせとして、住民に課されたものでした。
この頃、100mもの深さから水を汲み上げることのできる井戸(Tieffer Brunnen)が作られました。丘の上では水を得ることが非常に難しく、古くから近くの泉から水を引いてくることが試みられていましたが、不十分だったためです。
司教オットー2世の治世には、要塞の城壁をさらに取り囲む城壁が建造されたことが確認されています。
1373年、ヴュルツブルクの住民が要塞を攻撃し、要塞は黒色火薬を用いた銃火器で応戦したという記録も残っています。これがヴュルツブルクにおける最古の火器の記録です。
1400年代前半、司教領の没落に伴い、要塞の建築は大部分が中断されます。再開されるのは、1466年以降であり、司教ルドルフ2世が塔や離れに加え、要塞の増築やシェレンベルク門( Scherenbergtor)の建設を行いました。
近世
1495年から司教ローレンツは要塞をルネサンス様式レジデンツ(住居)へと立て替え、要塞を増築します。
ドイツ農民戦争が始まると、1525年に要塞はゴットフリード・フォン・ベルリヒンゲンが率いる農民らによる包囲を受けますが、持ち堪えることに成功しました。同年5月、15000の農民軍が要塞を取り囲みますが、幾重もの城壁により要塞内部への侵入は阻まれました。
司教コンラート2世は既に要塞からは避難していました。
農民はマリエンブルク要塞を攻略することはかなわず撃退され、惨殺されてしまいます。
近代
18世紀に入ると、ヴュルツブルク司教はヴュルツブルクの街中に宮殿を建設することを決定します。司教の居城として活躍してきたマリエンブルク要塞は、その役割を終えることとなります。
この移設された宮殿は今日も世界遺産として登録されているヴュルツブルクの「レジデンス」です。
まとめ
ヴュルツブルクのマリエンブルク要塞はその立地から古くから要塞としての役割を果たしてきた場所でもありました。
長い間、ヴュルツブルク司教の居城として使われたほか、厳重な守りのもと、農民戦争時にはその要塞としての役割を十分に発揮しました。
ヴュルツブルクに司教のレジデンスが建設されると、居城としての役割を失いますが、軍事的な要塞として重要な拠点でした。
今日でも、多数の観光客が訪れる観光地となっています。
ドイツならではの長い歴史を持つお城を楽しめると思うので、ヴュルツブルクを訪れた際にはぜひ訪れてみたいお城だと思います。
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